2019年9月4日水曜日

【健康に影響を与える自我】安心出来る空間が狭い人広い人

くだらない話のようだが、
健康にも影響を与える話なのでお伝えします。


日頃から気になっていたことがある、
全くの他人との「距離感」だ。

この「距離感」に、
異常に差を感じる時がある。

例えば、
在来線の電車で席に座る時、
どんなに空いていてもすぐ前とか、
真横ではないにしても近くに座る人がいる。

目的駅の階段の位置とかで、
その場所が便利な場合もあるとは思うが、
それにしても自分の感覚からはほど遠く、
不快感を得てしまう。

あるいは、
銀行のATMでもそうだ、
ガラガラの20台以上のATMがあるような銀行で、
数人しか利用者がいないにもかかわらず、
後から来てぼくの隣を使い始める人がいる。

不思議で仕方がないのだ。

そう、
ぼくは、
この自分の安心領域が「広い」のだと思う。

特に面識のない他人が、
ぼくからみて配慮のない距離感に入り込んでくると、
相当な不快感を感じている。

「パーソナルスペース」
と言うのだとかつて聴いた覚えのある言葉をざっと調べてみると、
この「スペース」が「狭い」人ほど、
人付き合いが良く、
ストレスが少ない、
と言うように良い印象に感じることが書いてある。

この「スペース」の話は、
恋愛の関係によく用いられているのかな、
だったら、
「狭い」人のほうが「モテる」ということになり、
「狭い」ほうが良い、
との認識になる。

まあ、
ぼくが「広い」からと言って、
これらの説に反論するつもりとか、
良いとか悪いとか言うつもりはない(笑)

ただ、
これらには明らかな「違い」がある。


逆の視点からの話もある。

ぼくは6月から事務所スペースを借りたのだが、
仕切りや壁のないがらんとした30平米弱のスペースだ。

この部屋で、
施術の時と、
推拿の指導の時は、
基本的に1対1で2人、
事務仕事や作業、
クリエイティブな仕事をしている時はいつも1人だ。

非常に快適だ、
寂しいと言うことはない。

この部屋に、
基本的にベッドと椅子が3つ、
このベッドを机代わりに使っている、
と言った何もない状態から活用を始めた。

親しい患者さんから、
こちらの事務所に招いて施術を始めたのだが、
患者さん相手に施術を始めてみると、
どうも落ち着かない、
と言うことに気付いた。

ぼく一人だと快適なのに(笑)

これも、
「常識的」な人からすれば当たり前なのだろうが、
「広い」と気持ちがいい、
と言う単純なことではなく、
「広い」と落ち着かない人のほうが多いのだ。

それからパーテーションを購入したり、
カーテンで仕切ったりして、
その時にいるスペースを狭くしていった。

結果、
患者さんは落ち着くようになったのだ。

当たり前か?

実は、
地形的な理由から、
日本人は「狭い」方が「安心」「安全」
だと言うことが身に染みているようだ。

人々が、
「協力」して「寄り添って」きたのは、
狭い地形と、
四季で移り変わりのある気候風土で、
農耕を主として来た暮らしぶりと、
深い関係がある。

おそらく、
広大な土地を有する、
大陸地域に生まれ育った民族とは、
大きな意識の違いがあるだろう。

しかしてそこでだ、
時間の感覚も、
情報の伝達の速度も、
のんびりゆっくりだった、
具体的な生活感覚は、
現在大きく変わってきた。

この三次元の形のある物質文明社会で、
時間や情報の概念が益々速度と量を増していく中、
抽象的なイメージの範疇でさえ、
空間の密度は濃く狭くなっていっている、
というのは皆さんも実感しているだろう。

実際に、
「空間」は、
この三次元においては、
『物質的』にも『精神的』にも、
「狭く」なり続けているのだ。

それなのに、
未だに「狭い」空間に押し込まれることに「安心」「安全」感覚を持ち、
自らも、他者も、
その思い込みからはみ出さないように、
心を「狭く」しながら生きているのだ。

「学校」も「会社」も、
「家庭」も「国」も、
かも知れない。

第一次世界大戦までの日本人を振り返ってみても、
戦後の経済復興の頃を思い出してもそうだが、
日本人はものすごいパワーを内在している。

個々にだ。

しかし、
歴史的に上下関係の縦割り社会を良しとしてきたぼくたちは、
「個」の個性を表立って自由に発揮することに慣れていない。

「統率」の元の「不自由」な「狭さ」に慣れて、
その「安心」「安全」領域を「快適」としてきた想い癖があるのだ。

この「不自由」な「狭さ」に甘んじるのは、
人間の本質とは違うものだ。

人間の本質は『自由』、
『制限』のない空間、
『宇宙』であるから。

この、
本質的ではない、
我々がつくり固めた「我」、
「自我」は、
『宇宙』の意思に反しているのだ。

自然の意思、
『天』と『地』の存在に意を向けない『人』は、
「病」に冒されるのは自明のことだ。

「病」は自分に向けられると、
「肉体」も「精神」も蝕む、
抵抗し続けると、
自らを死に向かわせる。

外、他に向けられると、
「闘争」そして「戦争」に向かう。

「個」の「狭い想念」
本質から遠ざかった意識が、
「個人」の中で耐え切れず「病」を生み出し、
「他人」への「攻撃性」を「発揮」して「発散」し始めると、
「いじめ」「パワハラ」「セクハラ」「暴力」「殺人」
に向かう。

そして、
「家庭」や「クラス」や「学校」や「会社」や「地域社会」で、
内に向かって「発散」していたエネルギーに、
「不満足」を感じた「個」が増していくと「集団」化して、
「国内」での闘争を始める。

そして、
「国内」での闘争に虚しさを感じ始めると、
「国外」に意識は向かい「戦争」を引き起こす。

「不満足」に生きるのは無知であり、
教養のなさをひけらかす、
恥ずかしい事だと知った方が良い。


どんなに小さな共同体においても、
「個」を「満足」させて生きていて、
初めて寄り添うことが出来る、
とあらためてインストールしなおした方がいいと思う。

自分に足りないものを補うために、
奪うために他の存在がいる訳ではない、
と言うことを肝に銘じて欲しい。

「個」だけで成立する『宇宙』を持っていてこそ、
「他」との『融合』を望むことが出来ると思う。

そこに、
「肉体的」にも「精神的」にも、
『健全』で『健康』な関係が育まれる。


最後まで読んでくださってありがとうございます。
天と地と人 すいなの信長正義

『天と地と人』では、
推拿施術と推拿の個別指導を行っています。
天と地と人ホームページ
をご覧ください。


0 件のコメント:

コメントを投稿