2019年8月8日木曜日

たどり着く心の居場所

人はその時々の状況により、
様々な悩みを抱えるものだ。

悩みがない人間などいない、
たとえ生涯困らない金品や不動産を得られたとしても、
たとえ不老不死が確定したとしても、
ある境地にたどり着いていなければ、
悩みはなくならない。

その境地にたどり着いても、
そこには様々な試練が現れて、
その境地が揺るがないことを試すだろう。

その心の状態を『不動心』という。

『不動心』の真の意味を知っている人がどのくらいいるだろう、
ぼくはこの言葉の意味を腹の底から知ったのはごく最近だ。

つまり、
日々の体験から腑に落ちた、
という経験を積んだ。

『不動心』とは全く動かない状態のことではない、
物事に対して臨機応変に冷静沈着に対応できる心の状態、
という。

対応できるのだから、
心自体は動いているはずだ。

仏や神になったら、
全く動じないのかも知れない。

でも人間である以上、
火であぶられたり、
矢で射されたら、
全く動じないわけにはいかないだろう。

「熱っ!!!」とか「痛っ!!!」とか、
一瞬は心乱れるだろう。

しかし、
この一瞬、乱れたとしても、
すぐに『平常心』に戻れる達人と言われる人間はいるかも知れない。

つまり、
これを『不動心』という。

だから、
この一瞬が一秒なのか、
一分なのか三分でも十分でも、
一時間でもいいかもしれない。

『平常心』に戻れる時間が早ければ早いほど、
人は幸せでいられると思う。

この『平常心』の心の場所がわかっていて、
『不動心』があれば、
心はかなり安定しているだろう。

心が安定している、
と言うことは幸せである、
だろう。

金品を得たり、
他人より秀でたり、
広大な土地を所有したり、
何千何万人を従えたり、支配したり、
全地球を手にれても、
心が安定するだろうか?

それほどのものを手にした上で、
不老不死になったら、
心は安定するだろうか?

幸せでいつづけられるだろうか?

『平常心』の境地をぼくは知っている。

いや、
もちろんぼくだけが知っているわけではなく、
多くの今生きている人たちは知っている。

本やインターネットでも、
そのことについてたくさん述べられている。

そういうことをセミナーなどで伝えている人もいる。

もちろん、
宗教家も説いているだろう。

文物として知っていても、
体得しているとは限らない。

『知識』として『知って』いても、
『知恵』として『できる』かはまた次元が違うのだ。

その境地を、
次元とか波動とか周波数とかで表わしているが、
言語という概念で理解すると、
『愛』と『感謝』になる。

なあんだ、
そんなことか、
と思う人もいるだろうが、
ここまで読んでいてくれたらきっと縁がある。

『愛』『感謝』の状態に心がいると、
全く動じることはないし、
それ以外の「次元」「概念」「意識」「波動」「波長」に影響されない。

というか、
全てに影響を与えるのが、
『愛』と『感謝』の心の状態なのだ。

だから、
『愛』『感謝』の状態でいたら、
不老不死でも幸せかも知れない。

逆に、
『愛』『感謝』以外の心の次元で、
不老不死だと地獄ではないか?

あ、
だから地獄なのか…(笑)

だから、
そこにたどり着く旅をしているのか。

そして、
自分がたどり着いたら、
他の人にその場所、
心の居場所を教える旅をするのか。

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