ある中国の方から、
「日本人は上下関係ですべてを当てはめて見ている」
という話を聴いたことがある。
目から鱗がとれる思いだった、
いや、当たり前過ぎて、
それが単に固定概念であることにも気づいていなかった。
「上下関係」
に関して疑ったことがなかった。
「親子」「兄弟」「年齢」「経歴」「経験年数」
「学歴」「職歴」「先輩後輩」「役職」「雇用」「取引」…
まだまだあるかも知れないけど、
こういう「関係性」があると、
そこに「上下」をあてはめるのは、
当たり前だと思っていた。
当たり前か?
いや、
当たり前ではなかった。
ぼくは自分のこれまでを振り返った。
無意識に、
人は(相手にするのはほとんど日本人)上下関係を探ることを知っていた、
なので、
他人との関係を簡単につくるのに、
「下手にまわる」
ということをやっていた。
多くの、
どうでもいい、
あまり関係性を持ちたくないタイプの人間は、
ほぼほぼこれを探ってくる、
「自分が上か下か?」
だから、
面倒くさいので、
明らかに「下にまわって」
とりあえずの関係性を安定させる。
そのほうがこのタイプの人間は安定する。
ただ、
ぼくは心では納得していないので、
この関係性が続くのにはストレスを感じることになる。
この何度でも起こることを、
『上下関係』の指摘を受けたぼくは、
真剣に注目した。
そこで、
この「江戸時代」以降も、
当たり前に続くこの土地の文化の、
『上下関係』を『人間関係』に当てはめないことに決めた。
その結果、
すごく楽になった。
やっていることは、
自分からは『上下関係』を求めない。
たとえば、
ぼくの日常には、
「患者さん」と「生徒さん」との関係がある。
「患者さん」はサービスを受ける方だから、
与える側のぼくは「上」ということになりやすいが、
こちらからは「上下なし」。
「患者さん」はお金を支払うお客さんでもあるから、
戴く立場からすれば「下」になるかも知れないが、
もちろんこれも「上下なし」。
自分からも「上下」を求めないし、
相手からの「上下」もなしとするのだ。
「生徒さん」は教えを乞う立場であるので、
教える側のぼくは「上」になりがちだが、
心してここにも「上下なし」。
ここには、
ぼくが「先に知って、先に理解して、先に出来るようになった」ことを、
お金を介して情報提供している訳なので、
基本的に対等である、
という姿勢がある。
ただ、
与えたものを受け取ってもらう段階で、
受けとってもらえるだけの相手の器が必要なので、
その時に応じて「上下ではなく」厳しい対応はするべきだと思いそうしている。
「夫婦関係」ももちろんそうだよね、
「上下」なんてあり得ないね。
「師弟関係」はどうだろう?
振り返ってみて、
ぼくには「無償」で得たものは、
天から授かったもの以外にない。
「親の愛」は「無償」ではないか?
そうかも知れない、
なのでもちろん感謝し続けているし、
もっともっとお返ししたい。
そのうえで、
幸い存命するぼくの母親は、
親子関係を上下関係に当てはめるようなことをしない。
「師匠」は「親」ではないし、
必ず「対価」を介して必要なものを得させてもらった。
「対価」が「対等」だったから「関係性」が続いていた。
具体的に言うと、
ぼくに「推拿」との出逢いをくれた師は、
『上下』を蜜のように好むタイプだ。
ぼくも先にお伝えしたが、
元々当たり前に「下にまわる」タイプだった。
こういうタイプ同士は、
ガッチリその欲求にはまる。
ただし、
ぼくのほうは、
本当に「尊敬」出来る人物で、
本当に「ついていきたい」と思っていられると、
何の疑いもなくその関係性を続けることに邁進する。
ただ、
その対象が「それらに値しない」
ことがわかってしまったら、
その「関係性ごっこ」を続けることは終了だ。
この世の中には、
相手からエネルギーやパワーを奪って当たり前、
というタイプの人間がいる。
このタイプに「上」にまわられて、
自分が「下」だと受け入れたらアウトだ。
自分の人生が終わってしまうと言っても良い。
国家が、
独立状態を切に望むのと同じで、
「自分」を占領されたり支配されたら「自分」ではなくなる。
これから始まる事業の中で、
また様々な人たちとの関係を結んでいくことになるだろうが、
独立した存在として社会に貢献していくための準備ができた。
そのレッスンを、
今までの経験から学んできた。
「上下関係」のないグループ、
組織はつくれるのだろうか?
いや、
もう組織自体、
社会活動の中で機能しなくてもよくなるのだろうか。
飲食店や、
コンビニのレジなんかで、
店員さんと上下関係をつくり、
「不機嫌」「横柄」「高圧的」
なやりとりをする大きな身体をしたお子様を度々見かける。
ぼくは、
彼らとは無関係で在り続ける。
0 件のコメント:
コメントを投稿